咳をしてもloneliness

孤独と向き合う壁打ちブログ

2022/12/03自己の絶対性と断続的な日々について

 

仰々しいタイトルではあるが、ここで書きたいことはあくまで僕が読み返すための揮発的な感情・想いであり、このブログを通じて不特定多数と議論を行いたいわけではない。

 

・・・という前置きがあっても、自分らしからぬ仰々しいタイトルになったことから、今の自分の精神状態がいまいち不安定であることが分かる。

 

これはなに?

日記。

 

 

これを書く理由について

広く一般的にはただ日記をつけたいと思ったからであり、自分の思いをそのままことばにすると、自己の連続性に疑いが出てきたので、それを確約するコンテンツが必要だったからである。

 

今まで多くの趣味・日課を自身に課せてきたが、一度として長く続いたことがなかった。もって2,3年位。

 

今回の日記がいつまで続くか自分にも見当がつかないが、少なくとも今後また自己の連続性について何か思うことができたときにこの日記が活用できたなら、これを書いたことの意味が生まれると思う。

 

自己の絶対性とはなんぞや

たつおが如何にしてたつおであるか。この要因のことを僕は自己の絶対性と呼ぶ。

 

はっきり言うと、僕にはアイデンティティというものが存在しない。ゲームが好きである、という趣向はあれど、僕の認識はあくまで"周りの人間より好き"という相対的なものであり、自己を確立するものとしての指標にはならない。(これは意固地かもしれない)

 

アイデンティティが存在しないとは、自分を自分だとはっきり認識することが出来ない

 

ということである。

アイデンティティとは、心身の成熟と共に自身に定着し、人として自律していくための心の指標だと思っている。では何故僕は今までの成熟の過程でアイデンティティの確立が起きなかったか。

 

それは間違いなく、"自身を相対的・客観的にしか評価してこなかった"からだ。

 

自分よりアタマの悪い奴がいる、自分は周りより身長が低い、ゲームは周りより上手い方だ、などと自身と他人を比較するだけで、自分の絶対性と向き合わずに"自身を客観視できる進んだヤツ"と認識していた。

 

これはまったくもってばかげたことだ。重さの分からない分銅と重さ20gの分銅の重量の差を比べられないように、自身の絶対性なくして自身の客観的な評価は下せないというのに。

 

断続的な日々

自分は昨日までの自分と同じである。ということを、どうやって自分に証明しよう。

僕には不可能だと思う。日々の生活の中で、物事の捉え方や考え方が目まぐるしく変わる、流動的な人間性では、自分の絶対的なものを発見することは不可能だ。

 

人は忘れる生き物である。小学生の時に考えていたこと、中学生の時の妄想、これらは全て僕の極めて揮発的な頭からは全て滅却されてしまった。程度に差はあれど、これに関してはみな同じだろう。しかし、経歴は残る。確か小学生の時はサッカーチームに所属していた。吹奏楽部でトランペットを吹いていた。中学生では陸上部に所属していたがやめてしまった。等。

 

ここまで頭の中の不思議な気持ちをつらつら書いてしまったが、要するに何が言いたいかというと、昨日までの自分と今日の自分と明日からの自分を同一視することができない、ということだ。

日々は連続的だというのが一般論だが、僕にとって、日々の自分を同一視することができない以上、それは日毎、やんわりとしたたつおというフォーマットを演じる断続的な日々なのだ。

 

締め切りまで

僕には絶対に逃れられないデッドラインがある。それは死だ。死んでしまったらおそらく地球上には僕の墓が建てられたり、僕が使ったもの、作ったもの(この記事だったり)が残るのだろう。しかし、僕には何も残らない。僕という存在はこの地球上(宇宙上?)のものであり、僕自身のものである。僕が死んだとき、僕には何も残らないのだから、その刹那から無になる。墓も見れないし日記も振り返ることができない。いままで何も言わずに世界中の内の1人だという同調圧力を敷いてきた世界から、突然ハブられてしまうのだ。だから僕は自身を世界の内の一人として認識できない。(自分には、世界との連帯感がないのだと思う)

 

だからだと思う。僕は、こぞって世界中にごまんといる人間の内の1人を演じようとする人々を信用することができない。それは僕の事であり、またあなたの事だ。

 

今でもよく、死んだときのことを考えて頭がいっぱいになる。頭の中に虚無が広がり、その嘘みたいな虚空が勢いよく現実味を帯びてくる。するとまともな意識が保てなくなり、とりあえず大声を出したり体を大きく動かしたりして、自身の所有権がまだあることを確認し、虚ろな意識を現実に引き戻す。この苦しみの解決は恐らく終わるまでされない。

 

この世には案外、死にたい人であふれている。女の子に振られた、死にたい。落単した、死にたい、等。僕はこういった発言を目にすると頭がおかしくなる。死にたいなら死ねばいいじゃないか。なぜ死ぬことを是とするのか。というか最近は、みんな案外死にたくない訳じゃないのではないかと思う。...死にたくないよね?

 

終わりに

書いていて苦しいが、揮発的な情報をストレージに移す作業だと思うと、なぜか崇高な行動なのではないかと思う。

いつの日か、この記事が自身の死にたくない病の病巣を抉ってクリティカルヒットしないことを祈る。

2022/12/03 たつお