咳をしてもloneliness

孤独と向き合う壁打ちブログ

才能とは

 

得意なことや上手にやれたことに対して、他人から「才能があるね」と評価されることがあります。

僕はこれを言われる度に褒められていると思っていたので、手放しで嬉しがっていたのですが、人によっては努力をないがしろにして評価されているように感じることもあるようです。

 

この「才能があるね」の受け取り方には、"才能"という言葉の認識に違いがあることで変わってくるのではないでしょうか。

確かに、"才能"が天から授かった先天性のもの(天賦の才)という認識の人が、がんばって努力したことを才能だと評価されたら悲しそうです。

 

 

今回は、今までおぼろげにしか考えることのなかった"才能"について、具体的になんなのか自分なりに結論が出たのでここにメモっておきたいと思います。

 

そもそも才能って?

 

"才能"をどう感じるか以前に、まずはこの言葉がどういう意味合いに定義されているのかを調べてみました。

 

物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。「音楽の―に恵まれる」「―を伸ばす」「豊かな―がある」「―教育

dictionary.goo.ne.jp

 

なるほど。やはり先天的な能力の事を指す言葉のようです。

 

今までの人生で、「これは才能だ」と思った出来事というと、友人の絶対音感や物事の習得速度の速さなどでしょうか。自身の能力を才能だと感じたことはないですね。悲しい。

ですが、これらは本当に先天的なものなのでしょうか。絶対音感は幼少期にピアノを習っていた人に多いと聞きます。

習得速度の速さは先天的のように感じますが、習得速度の速さだけで見るなら今までに向いていないものに触れてこなかっただけで、総合的な習得速度は普通である可能性もありそうです。(曲解な気もしますが)

 

では、向いているものが才能のあるものということなのでしょうか?

プロスポーツ選手は特に向いていたからプロになっていそうですね。

しかし、プロ入りするまでに(そのあとも)人よりもずっと努力していることは間違いないでしょう。

 

こうやって考えてみると、そもそも他人の能力を先天的なものと判断するのがそもそも難しいので、それを才能だと評価するのは半ば決めつけのような気がしてきました。

 

才能は"結果が出せるかどうか"

 

結局のところ、才能とは客観的な評価に過ぎず、他人の優秀な結果をあたかも必然的な産物だと評価する言葉に感じました。しかし、恐らくこの所感は本質に触れていません。

 

才能の本質は、結果が出るまでやれるかどうかにあります。

 

というのも、結果が出なければ才能があったことを証明できないからです。

結果は往々にして、人によって結果か否かが変わってきます。

評価されるため人生を絵を描くことに捧げた画家が無名のままこの世を去り、死後になって評価されれば、画家にとっては才能がなかったと言えますが、評価する側の人々にとっては才能があったと言えそうですよね。

ですが、画家がただただ絵を描きたいがために絵を描いていたらどうでしょうか。その絵が評価されようがされまいが、本人にとっては絵を描く才能があったと言えるのではないでしょうか。

 

才能?気にすんな!

思うままに書いてすごくまとまりが悪くなってしまいましたが、言いたいことは"才能なんてふわふわな言葉使わずに気にせず行きましょうよ!"ってこと。

上記のように才能は先天性のもののようですが、「才能を秘める/才能に目覚める」なんて都合のいい言葉もあるくらいです。才能ないなぁって思ったり、才能ないねって言われたときは「秘めてるんで/目覚めてないんで」って思っておきましょう。

 

というか、日本人って何かと生まれ持ったものという概念好きですよね。すべてのものには理由があってほしいみたいな。

僕はすべても物事は偶然の産物だと思っています。あなたがこのブログを見ているのも間違いなく偶然。

 

書く前は高尚なこと書こう!という気概でいっぱいなのですが、いざ書いてみるとうまく文章にまとめられず途中で飽きて、まとめがおろそかになってしまうのです。これがいわゆる「画竜点睛を欠く」ということでしょうか。

 

文章書く才能ないなぁ。いや、秘めてるんで✋

 

おわり。