咳をしてもloneliness

孤独と向き合う壁打ちブログ

【雑記】創作におけるお目汚しって概念

 

最近、趣味のドット絵を再開した。

もっと意図を作品に込められるよう鍛錬をしていきたい。いずれ自身の別の作品にも組み込んでいけるとなお良い。

 

再開にあたって、SNSへの投稿も少し頑張ってみようと思った。やはり作品とは、他人の目に曝して感情を揺さぶることで、真に完成と言えるのではないだろうか。今は主に自己満足での創作だが、それでも"この1ドットで見る人に奥行きを感じてほしい"と思って打つことはしばしばある。技量の良し悪しは関係なく、作品に込める思いというのは多かれ少なかれ存在する。

 

と、実際のところただ単に創作をSNSに流していますという近況報告なのだが、その中で一つ気にかけていることがある。

それが、下手な絵を他人のTLに流してしまうことだ。それも、あまり住み分けを行っていない界隈のごった煮のようなTLへ。

 

人は、特に創作をあまりしない立場の人からすると、そもそも下手な作品というのは、目にも入れたくないぐらい価値の低いものである。駅のホームで誰かの吐瀉物を発見してしまったときと、その気まずさと忌避感は等しいといって過言ではない。

特に、昨今ではSNSを筆頭に美麗で美しい作品を目にする機会がとても多く、それだけに他人の目も必然と肥えている。一度見られてしまったが最後、TLを汚す不埒な輩としてミュートやブロックをされてしまうかもしれない。

 

 

だが、そこで投稿を辞めてしまうのは違う。

SNSへの投稿は、先に述べた通り、他者の心を動かすための手段であり、その過程無くして他者の心を動かす方法など得られるわけがないからだ。

下手な絵でTLを汚すことで関係を絶たれてしまうような細い繋がりなど、ハナから要らないのではないか?いずれミュート解除された時に成長を見せつけ、むしろ良好な関係を築けるのではないか?

創作を他者に見せることで何かネガティブな気持ちが起きたら、今一度冷静に考える時間を作るべきだ。やりたいことを見つめ直して、目的地を見失わないようにしよう。

 

 

 

というわけで、ナヒーダのドット絵イラストの投稿に強いストレスを感じたので冷静になるための戒め的雑記でした。

見てもらうための工夫として、ハッシュタグを盛ったり、つけるハッシュタグの検索の多い時間帯を狙って投稿したり、多少おざなりに考えているのですが、それは同時に知り合いや友人にハッシュタグ盛り盛りのへたっぴイラストを見られてしまうことにもなる訳で。恥ずかしいことこの上ないわけです。

実際、ハッシュタグの多いツイートってより不特定多数に見られるので知り合いには敬遠される傾向にあるだろうし、素性を知っている人の創作って、なんとなくムズムズするというか、なんか気まずいと言うか、純粋な気持ちで見られない!という人は多いと存じています。…自分もその一人だったりします。

ですが、僕は作品を通じて人と会話がしたい。

今までであった、"語りかけてくるような"印象的なドット絵を、僕も作りたい。

そのために、すこーしお付き合いいただけるとすごく嬉しい。

これでも一応、ドット絵歴7年目なんですよ。

 

 

誰が見てるか本当にわからないので、一応ですが、

知り合いのよしみでいいねやコメントなどで反応していただくのも(死ぬほど)嬉しいのですが、いずれ惰性になってしまうだろうし、そう感じてしまった時の双方の悲しみは計り知れないところがあるため、ええやん!って本当に思った時だけ反応くれると良いと思います。むしろ、いいじゃん!があったらぜひ教えて下さい。どんな形でも良いです。誰かにいいじゃんが届けられるかもしれないというのが、恐らく僕の創作の原動力なので。

…こんな事書いても意味ないと思うけど。一応ね。

 

気張りすぎず怠けすぎずマイペースに頑張る所存です。目指すは神絵師の腕。

 

 

おわり