咳をしてもloneliness

孤独と向き合う壁打ちブログ

 

 

 

心がダメなときに読まないでください。

 

 

 

最近、何かするときに、好きだからやっているのか、惰性でやっているのか分からなくなることがあります。

僕はゲームが好きで、日々ソーシャルゲームのデイリークエストをこなしたり、格闘ゲームで強くなるためにトレーニングモードにこもったり、買い切りゲームを気の向くままに遊んだりするのですが、果たして本当にゲームが好きなのか自信がなくなりました。

 

ソシャゲのデイリーは、有料コンテンツを無料で享受するための時間的なお布施であり、やっていることは"やらされている感の強いRPGのレベリング"という所感。あまり好きなコンテンツではありません。

 

特にソーシャルゲームに関しては、同じゲームをプレイしている友人らとのコミュニケーションツールになっている節があり、継続的にやっていることがある種そのコミュニティに参加している理由につながるので、フェードアウトすると罪悪感や友人との隔たりを感じてしまいます。友人との会話についていけなくなるのはただただ寂しいし、友人が共通のソシャゲからフェードアウトしていく寂しさもまた分かりますし...。

 

格闘ゲームに関しては思い返すと本当に自分の価値観の未熟さがうかがえるプレイをしていますね。

僕が格闘ゲームを始めたきっかけは、学生時代に友人らと突発的にはじめたストリートファイター2TURBOでした。そこでスタートダッシュからプレイの腕に差があって今まで続いているという感じです。

学生時代は友人らに学力差でだいぶ劣等感を抱いていたので、唯一勝てる格闘ゲームが安いアイデンティティになってしまいました。そのうえプレイのモチベーションが友人らより強いことだけなので、たいして上達しようという向上心もなく、練習の成果がランクマッチなどで感じられなくても、まあ友人らよりは上手いんだからいいだろう、という下卑た考えで落ち着いていた時期もありました。

いまとなっては格闘ゲームを遊ぶ友人らも減り、上述の安いモチベーションでは遊べなくなったので、傾向と対策を意識した継続的なトレモルーティーン(笑)で努力している感を取り繕いながら自分を騙してプレイしている感じです。

 

と、ソシャゲや格ゲーをいかに淀んだ視界で認識しているか分かったかと思いますが、それ以上に買い切りゲームが今回一番ゲームが好きかどうか自信が持てなくなった原因です。

いまとなってはゲームはあまりやらなくなった学生時代の友人らに、なんでゲームやらなくなったのかと聞くと、口をそろえて、「時間が無くなったから」と言います。実際、学生時代ゲームにあてていた時間を、新しい趣味や人間関係に使っていたりと忙しく見えます。それは、あの頃から今に至る過程で何かやりたいことを見つけて、新しいステップへ進んでいるようで、学生時代とやっていることが寸分も違わない自分は置いて行かれたのかもわかりません。

長いこと同じことをやっていると、一つ一つのものにかける感情のリソースが減ってきて、好きでやっているというよりも、今までやっていたから好きなんだろうという前提の置き換わりが発生しました。これは格闘ゲームソーシャルゲームも買い切りゲームも全て同じで、やっているとたまに、なんでやっているんだろうとかもっと他にできることがあるだろうと思います。

学生時代に、将来研究職に就くかプロゲーマーになるか悩んでいる友人に、ノリでプロゲーマーを勧めたら、生産性のなさがネックだと言われてハッとしたことを思い出します。

 

ゲームって、疲れるんです。感情の動きってすごく疲れるので、濃密なストーリーのゲームなんて立て続けにできないし、激しいPvPなんて感情の振れ幅が大きくてすぐにフェードアウトします。しまいにはゲームに対する気持ちが、「楽しい」よりも「疲れる」に偏ってしまい、比較的疲れないシミュレーションゲームやコミュニケーションツール的ゲームのみを遊んでいる現状です。

なんならそれらすら面倒くさいと思っています。毎日長いゲーム開始ムービーを見させられてポチポチデイリークリアして、不親切なUI操作に辟易しながら1時間程度デイリーに時間とられて...。

 

 

これだけしかやりたいことないから!と好きなことを好きそうにやっている人がとても羨ましいです。俺はこれだけだからと割り切れる人がうらやましいです。ゲームもタイピングもベースもバイクも旅行も音楽もドット絵もと、やりたいと思うことを気分でやって大した成果も得られずろくな経験も積めず辞めて、他人に経験があると自信をもって明かすこともできない人間は結局、瞬間的な楽しさだけを享受し続けて、いずれ塵のように現世からフェードアウトしていくのでしょう。

 

 

 

社会に溶け込めず、価値観もろくに成熟せず、好きなものの見分けもつかなくなってしまうような人間は、人目のつかない世界の隅っこでおとなしくしているのがお似合いだ。

頑張っていないやつからは、頑張っていないことがありありと分かるような成果物しか生まれない。