咳をしてもloneliness

孤独と向き合う壁打ちブログ

期待しないということ

 

僕は怒るという行為がとても嫌いです。

特に不満をぶつける怒りはやられていてもやっていても第三者目線でも嫌な気分になります。

 

そこでどうすれば、少なくとも僕は怒らずに人生を送ることができるか考えました。

そこで至った結論が、"期待しない"ということでした。

 

 

求めすぎない

人は望む結果が得られなかったときに怒ります。

若いコンビニ店員のむかつく接客や、オンラインチーム対戦で下手な仲間を引いたときなど...

 

でもそれらの事象で怒らない人もいますよね。というか基本的に怒りません。

というのも、大人な対応として認知される、"不満をあらわにしない"というのは、"過度な期待をしない"ということが根底にあるからなのです。

 

コンビニの接客なんてこんなもんだろ...とか、まあランダムマッチングだししゃーない、とか。

 

これはまさしく諦観であり、これに気が付いたとき、「大人になるってのは、何かを諦めることなんだよ...」というよくあるセリフに初めてはっきりと納得がいきました。

 

すべては...

この考えに至り、考え方がそちらに寄ってから世間一般で言われる「プライド」というものが消えたように思います。自分に期待しなくなったからです。

自分に期待しなくなると、ニートであることに強い負い目を感じることもなくなったし、社会への順応性のなさもある種の個性のように感じます。他者の目が気にならなくなったともいえそうですね。

 

一番大きな変化は、物事へのモチベーションです。

 

今までは、何かを始めるにあたってどうしても「自分にできるのか」という懸念が付きまとっていました。もちろんできるか曖昧な状態で始めることはできるのですが、わだかまりが残る感覚がありました。

ですが、自分に期待しなくなると「やってみたい!」という気持ちだけで動けているようです。このブログも然り。

 

また、失敗も気にならなくなりました。

ゲームで失敗したり、生き方をミスったりして「俺って駄目だなぁ」という気持ちがありましたが、考えるだけ無駄だなと思う気持ちが強くなりました。

これをきっかけに、自虐的な考え方の原因の一つに、自身への期待感やプライドが関わっていることが分かりました。

 

これから起きる問題

悲しいことに人という生き物は、他人の気持ちを推し量るときにどうしても自身を基準にしてしまいます。要するに、常人と価値観や考えが逸脱しすぎていると、常人の考えが分からなくなってくるということです。(ここでの常人とは、僕から見た一般的な考えの人のこと。)

 

実際、幼少期は流行りの曲を聴く友人らの考えがよくわからなかったし、今でも自分のやりたくないことを進んで楽しそうにやっている人のことってよくわかりません。

社会から逸脱していくことを分かったうえで、一般的な価値観を捨てることをよしとするなら、自身が今まで持っていた一般社会で培った価値観は忘れないように保存する必要があると思います。

そのためにこうやって日記をつけたり、定期的に人と交流して一般を"認知"することは怠らないようにしたいです。

 

 

 

(若干の尻すぼみ感をのこして)おわり。